第9回 事上磨錬

古典に学ぶ

前回は王陽明の思想の集大成である「四句教」について解説しました。今回は、王陽明が特に重視した実践的修養法である「事上磨錬」(じじょうまれん)に焦点を当てます。「事上磨錬」とは、実際の事態や日常の出来事に対処する中で自らを鍛えるという意味で、陽明学の実践的側面を最もよく表す概念の一つです。理論と実践の統合という視点から、この教えが現代の私たちの生活にどのように活かせるかを考えていきましょう。

「事上磨錬」とは何か

「事上磨錬」という言葉は、「事の上で磨き錬る」という意味です。「事」とは日常の出来事や課題、「磨錬」とは自己を鍛え磨くことを指します。つまり、日常生活で直面する様々な状況や課題に取り組むプロセスの中で、自らの心と能力を鍛えていくという修養法です。

王陽明は『伝習録』でこう述べています。「事を離れて理を求めることなかれ」。これは、抽象的な理論や概念を学ぶだけでは不十分であり、実際の事態や具体的な出来事の中で理を体得することの重要性を説いたものです。

また「一草一木も、磨錬せざれば、知を致すに足らず」とも述べ、どんな小さな事柄も磨錬の機会になりうることを強調しています。

私は多様な業界での経験を通じて、「実践から学ぶ」ことの重要性を痛感してきました。新聞記者として現場を取材し、パチンコ店経営として現場に立ち、貿易業や不動産業でも現場での経験が何よりの学びとなりました。「事上磨錬」は、こうした「現場主義」「実践重視」の姿勢と深く共鳴するものです。

「座上工夫」と「事上磨錬」

王陽明の「事上磨錬」をより深く理解するために、それと対比される「座上工夫」(ざじょうくふう)という概念について考えてみましょう。

「座上工夫」とは、文字通り「座って行う工夫」、つまり静かに座って行う内省的な修養を指します。瞑想や読書、思索などの活動がこれに当たります。朱子学では、こうした静的な修養が重視されていました。

一方、「事上磨錬」は「事に即して行う工夫」、つまり日常の活動や社会的実践の中で行う動的な修養を指します。人間関係の調整、仕事上の課題解決、社会的責任の遂行などがこれに当たります。

王陽明は両方の修養法を認めつつも、特に「事上磨錬」の重要性を強調しました。なぜなら、真の知識や徳は実際の状況の中で試されてこそ本物になると考えたからです。

私も難病を患ってから瞑想や読書などの「座上工夫」の価値を再認識しましたが、同時に、実際の生活の中で健康管理や仕事の調整を行う「事上磨錬」の重要性も実感しています。理想的には、この両者のバランスが取れた修養が望ましいのでしょう。

「事上磨錬」と「知行合一」の関係

「事上磨錬」は、王陽明の中核的思想である「知行合一」と深く結びついています。

「知行合一」が「知ることと行うことは本来一体である」という原理的な主張であるのに対し、「事上磨錬」はその実践方法を具体的に示したものと言えます。「知行合一」が目指すべき理想だとすれば、「事上磨錬」はそこに至るための道筋です。

王陽明によれば、真の知識は行動を通してのみ獲得されます。「事上磨錬」はまさにその過程を指しており、実際の行動や実践を通じて知識を深め、同時に行動力を高めていくという循環的なプロセスなのです。

私は70億円の債務整理に携わった経験から、「理論と実践の往復運動」の重要性を学びました。法的知識や交渉術を学ぶだけでなく、実際の交渉の場で試し、そこでの経験から学び、さらに知識を深める—この循環こそが「事上磨錬」と「知行合一」の関係を体現していると思います。

「事上磨錬」の三つのレベル

王陽明の「事上磨錬」は、様々な次元や深さで実践することができます。ここでは、「事上磨錬」の三つのレベルについて考えてみましょう。

1. 日常的な「事上磨錬」

最も基本的なレベルは、日常生活における小さな出来事や選択を通じた修養です。例えば、約束を守る、嘘をつかない、人の話を丁寧に聴く、感謝の気持ちを表すなど、日々の行動一つ一つが「事上磨錬」の機会となります。

王陽明は「一草一木も、磨錬せざれば、知を致すに足らず」と述べ、どんな小さなことも学びの機会になりうることを強調しています。

私は在宅ワークに切り替えてからも、時間管理や自己規律の面で日々「事上磨錬」を実践しています。特に難病を抱えながらの生活では、健康管理や時間配分の一つ一つが自己鍛錬の機会となっています。

2. 挑戦的な「事上磨錬」

より高度なレベルは、自分の comfort zone(快適領域)を超えた挑戦や困難な状況での修養です。新しい仕事に挑戦する、未知の環境に飛び込む、自分の弱点と向き合うなど、意識的に自分を試す状況を作り出すことも「事上磨錬」の一形態です。

王陽明自身、貴州への左遷という困難な状況を「龍場の大悟」へと転化させた体験を持っています。彼は逆境を自己鍛錬の機会と捉え、そこから大きな学びを得たのです。

私も貿易事業の失敗という挫折を経験しましたが、その過程で「人を見る目」や「リスク管理の重要性」について深く学びました。挫折や困難は、適切に向き合えば最高の「事上磨錬」の機会になりうるのです。

3. 社会的な「事上磨錬」

最も広い視野での「事上磨錬」は、社会的責任や公共的課題に取り組む中での修養です。組織や地域社会、国家レベルの問題解決に参画し、より大きな文脈での「事上磨錬」を実践することも可能です。

王陽明は単なる個人的修養に留まらず、社会変革や政治活動も重要な「事上磨錬」の場と考えていました。彼自身、官僚として、また軍事指導者として社会的責任を果たす中で自らの思想を深めていきました。

私はパチンコ店経営を通じて、地域社会との関わりや従業員の生活への責任など、社会的な視点からの「事上磨錬」の重要性を学びました。ビジネスは単なる利益追求ではなく、社会的役割を果たす場でもあるという認識が深まったのです。

「事上磨錬」の実践方法

「事上磨錬」を日常生活に取り入れるための具体的な方法について考えてみましょう。

1. 意識的な体験学習

日々の体験を単なる経験で終わらせず、意識的に学びを抽出することが重要です。これは現代の「体験学習サイクル」(経験→内省→概念化→実践)に通じるアプローチです。

具体的には、日記やジャーナリングを通じて体験を振り返る、メンターや信頼できる人と体験を共有し対話する、体験から得た教訓を明確に言語化するなどの方法があります。

私は経営の現場で、週末には必ずその週の出来事を振り返り、何がうまくいき、何がうまくいかなかったか、そこから何を学べるかを考える時間を取っていました。この習慣が、体験を深い学びに変える助けになりました。

2. 自己観察の習慣化

「事上磨錬」において重要なのは、外部の状況だけでなく、自分の内面の動きにも注意を向けることです。具体的な状況で自分がどのような感情や思考を抱いたか、どのような判断や選択をしたかを観察することが、自己理解を深める鍵となります。

王陽明も「静坐して、念慮の動くを観察せよ」と教えています。これは単に瞑想だけでなく、日常の活動の中でも心の動きを観察することの重要性を示唆しています。

私は交渉の場などで、相手の言動に対する自分の感情的反応をその場で認識し、それに流されないよう意識するようにしています。これは難しい実践ですが、続けることで心の動きへの気づきが深まっていくのを感じます。

3. フィードバックの積極的活用

「事上磨錬」をより効果的に行うには、外部からのフィードバックも重要です。自分の言動が他者にどのような影響を与えているか、客観的な視点から学ぶことで、自己理解と成長が促進されます。

具体的には、信頼できる人からの率直なフィードバックを求める、業績や結果を客観的に評価する仕組みを持つ、批判や指摘を防衛的にならずに受け止める姿勢を持つなどの方法があります。

私はパチンコ店の経営で、お客様からのクレームを「貴重なフィードバック」として真摯に受け止め、改善に活かす文化づくりに努めました。また、従業員からの率直な意見も歓迎する姿勢を示すことで、組織全体の「事上磨錬」が促進されたと感じています。

4. 困難を成長の機会と捉える

「事上磨錬」の本質は、困難や挑戦を避けるのではなく、それを成長の機会と捉えることにあります。失敗や挫折、葛藤や矛盾といった「居心地の悪い」経験こそが、最も深い学びをもたらすことが多いのです。

具体的には、失敗を恐れずにチャレンジする、快適領域を超えた経験を意識的に求める、困難な状況でも「ここから何を学べるか」という視点を持つなどの姿勢が大切です。

私は貿易事業の失敗という苦い経験から、「成功からはあまり学べないが、失敗からは多くを学べる」ということを身をもって理解しました。その経験が、その後の判断力や危機管理能力の基盤になっていると感じています。

「事上磨錬」と現代ビジネス

「事上磨錬」の考え方は、現代のビジネスや組織マネジメントにも多くの示唆を与えてくれます。

1. 実践的なリーダーシップ開発

現代の組織でも、真のリーダーシップは実践の場で磨かれるという認識が広まっています。「70-20-10の法則」として知られる考え方によれば、リーダーシップ開発の70%は実際の仕事の経験から、20%は他者との関係から、そして10%だけが公式の教育から得られるとされています。

これはまさに王陽明の「事上磨錬」の考え方と一致するものです。有能なリーダーを育てるには、課題解決の実践、困難なプロジェクトの遂行、部下の育成などの「事上磨錬」の機会を意図的に提供することが効果的なのです。

私はパチンコ店の組織改革において、若手店長に「目標と自由」を与えるアプローチを取りました。明確な目標を示しつつも、その達成方法は彼らの創意工夫に任せることで、実践を通じた学びを促進したのです。

2. 組織学習としての「事上磨錬」

「事上磨錬」は個人レベルだけでなく、組織レベルでも考えることができます。現代の「学習する組織」の概念は、組織が経験から学び、継続的に自己変革していく能力を重視していますが、これは組織的な「事上磨錬」と言えるでしょう。

具体的には、プロジェクトの「振り返り」の実施、失敗からの学びを共有する文化の醸成、実験的な取り組みの奨励などが、組織的な「事上磨錬」を促進します。

私はパチンコ店の経営で、「トライ&エラー」の文化を大切にしました。新しいサービスや運営方法をまず小規模に試し、うまくいったものを全店舗に展開するというアプローチです。これにより、組織全体が実践から学ぶ「事上磨錬」の循環が生まれました。

3. イノベーションと「事上磨錬」

イノベーションプロセスも「事上磨錬」の一形態と捉えることができます。現代のリーン・スタートアップやデザイン思考などの方法論は、仮説を立てて実際に試し、フィードバックを得て改善するという反復的なプロセスを重視しています。

これは王陽明の「事を離れて理を求めることなかれ」という教えと共鳴するものです。机上の空論ではなく、実際に市場や顧客と関わる中で製品やサービスを改良していくアプローチが、真のイノベーションを生み出すのです。

私は組織改革において、「完璧な計画を立ててから実行する」よりも「小さく始めて改良していく」アプローチの方が効果的だと学びました。これはビジネスにおける「事上磨錬」の現代的表現と言えるでしょう。

「事上磨錬」と現代教育

「事上磨錬」の考え方は、現代の教育にも重要な示唆を与えてくれます。

1. 体験学習の重要性

現代教育でも、座学だけでなく実際の体験を通じた学習の重要性が再認識されています。プロジェクト型学習(PBL)、サービスラーニング、インターンシップなどの教育手法は、実践的な「事上磨錬」の機会を学生に提供するものと言えるでしょう。

王陽明が「格物」を「心の不正を正す」実践として再解釈したように、現代教育も「知識の暗記」から「実践的な知恵の獲得」へと重点をシフトさせています。

私は若手スタッフの教育において、マニュアルや講義よりも「実際にやらせてみる」ことを重視しました。もちろん基本的な知識は必要ですが、実践の中でこそ真の学びが起こるという「事上磨錬」の原則が、教育の場でも有効だと感じています。

2. 反省的実践者の育成

現代の専門家教育では「反省的実践家」(reflective practitioner)の概念が注目されています。これは実践の中で考え、考えながら実践するという循環的なプロセスを重視するアプローチです。

この考え方は王陽明の「知行合一」や「事上磨錬」と深く共鳴します。両者とも、理論と実践の分離ではなく統合を目指し、実践の中での反省や気づきを通じた学びを重視しているのです。

私は自分自身を「反省的実践家」として育てるため、定期的に自分の実践を振り返り、「なぜそうしたのか」「どうすればより良くなるか」を考える習慣を身につけました。これは現代的な文脈での「事上磨錬」と言えるでしょう。

3. 生涯学習と「事上磨錬」

「事上磨錬」の視点は、学校教育だけでなく生涯学習のあり方にも示唆を与えます。人生のあらゆる経験を学びの機会と捉え、意識的に自己を磨いていく姿勢は、生涯にわたる成長と発達の基盤となります。

王陽明も「学問は老いても益あり」と述べ、生涯にわたる修養の重要性を説いています。

私は難病を患った後も、新たな仕事や勉強に挑戦し続けています。健康状態が変わっても、その状況の中で最善を尽くし、そこから学ぶという「事上磨錬」の姿勢が、人生の質を高めてくれると感じています。

「事上磨錬」と人生の危機

人生には様々な危機や困難が訪れますが、「事上磨錬」の視点はそうした危機を乗り越える上でも有益です。

1. 危機を学びの機会と捉える

「事上磨錬」の考え方によれば、危機や困難は単なる不運や障害ではなく、むしろ自己を磨く絶好の機会と捉えることができます。

王陽明自身、貴州への左遷という危機的状況を「龍場の大悟」へと転化させました。これは危機を学びの機会と捉えた典型的な例と言えるでしょう。

私も難病の診断を受けたときは深い絶望を感じましたが、時間の経過とともに、この経験が私の価値観や人生の優先順位を見直す貴重な機会になったことに気づきました。「事上磨錬」の視点は、危機を成長の転機へと変える助けになるのです。

2. 逆境における内的自由

「事上磨錬」の真価は、外的環境が制限される中でこそ発揮されます。どんな状況でも、自分の心の在り方を選ぶ内的自由があるという気づきは、逆境を乗り越える大きな力となります。

王陽明も「外境に心を奪われるな」「何物にも動じない心を修養せよ」と教えています。これは外的状況に関わらず、内的な自由と尊厳を保つ姿勢の重要性を示すものです。

私は健康を害し、物理的な活動が制限される中で、「できないことを嘆くより、できることに集中する」という姿勢が重要だと学びました。これは逆境における内的自由の実践であり、「事上磨錬」の本質に通じるものだと感じています。

3. 危機からの再生と成長

「事上磨錬」の最も深い側面は、危機や困難を通じた真の変容と成長の可能性を示唆している点です。これは現代心理学の「外傷後成長」(post-traumatic growth)の概念とも共鳴します。

王陽明の思想形成自体が、左遷や挫折といった危機を通じた深い変容のプロセスだったと言えるでしょう。

私も事業の失敗という挫折を経験しましたが、その経験から「本当に大切なものは何か」を学び、より真摯で謙虚な姿勢を身につけることができました。危機は「事上磨錬」の最も深い場となりうるのです。

「事上磨錬」の現代的実践例

最後に、現代社会における「事上磨錬」の実践例をいくつか紹介します。

1. マインドフル・リーダーシップ

現代の組織では「マインドフル・リーダーシップ」が注目されています。これは、リーダーが自己の内面や周囲の状況に対する気づきを深め、それをリーダーシップの実践に活かすというアプローチです。

具体的には、自己の感情やストレスに気づくマインドフルネス実践、部下や同僚の発言に深く耳を傾ける「傾聴」の実践、複雑な状況での意識的な判断と選択などが含まれます。

これらの実践は、内面の気づきと外的行動を統合するという点で、王陽明の「事上磨錬」と共通する要素を持っています。

私は経営者として、朝の時間を使って静かに自分の心の状態を観察する習慣を持っていました。そうした内省が、その日の決断や行動の質を高め、リーダーシップの効果を高めると実感しています。

2. アクションラーニング

「アクションラーニング」は、実際の課題に小グループで取り組み、その過程での気づきや学びを深めるという組織学習の手法です。実際の問題解決と内省的な学びを統合するという点で、「事上磨錬」の現代的実践と言えるでしょう。

具体的には、実際のビジネス課題に対する解決策の立案と実行、定期的な振り返りと対話、コーチによる問いかけを通じた気づきの促進などのプロセスが含まれます。

私は組織改革において、部門横断のプロジェクトチームを作り、実際の経営課題に取り組むというアプローチを取りました。これは単なる問題解決ではなく、その過程での学びを通じた人材育成も目的とした「事上磨錬」の実践でした。

3. デザイン思考

「デザイン思考」は、ユーザーの実際のニーズに基づいてイノベーションを生み出すアプローチです。理論よりも実践、計画よりも実験を重視するという点で、「事上磨錬」の精神を現代的に表現したものと言えるでしょう。

具体的には、ユーザーの観察と共感、問題の再定義、多様なアイデアの創出、プロトタイプの作成と検証という反復的なプロセスが含まれます。

私は新サービスの開発において、お客様の声を直接聴き、小規模な実験から始め、フィードバックをもとに改良していくというアプローチを大切にしました。これは「事を離れて理を求めることなかれ」という王陽明の教えを、ビジネスイノベーションの文脈で実践したものと言えるでしょう。

次回予告

次回は「万物一体の仁」について解説します。王陽明の仁の概念と、すべての存在との根源的な一体感についての哲学を掘り下げ、その生態学的視点からの再評価や現代の環境倫理への示唆について考えていきます。東洋思想特有の「人間と自然の調和」という視点が、現代社会にどのような意義を持つかを探求していきましょう。


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