第9回:「事上磨錬」

古典に学ぶ

実践による自己修養の方法

陽明学の最も特徴的な側面の一つに「事上磨錬」(じじょうまれん)という概念があります。これは文字通り、「事(こと)の上に磨(みが)き錬(ね)る」という意味で、日常の様々な出来事や状況の中で自己を磨いていくという実践的な修養法です。

王陽明は、単に書物を読んだり理論を学んだりするだけでは、真の理解や成長は得られないと考えました。「静坐」(せいざ)のような瞑想的実践も重要ですが、それだけでは不十分であり、実際の生活や仕事、人間関係の中での実践を通じてこそ、本当の修養が可能になると説いたのです。

特に王陽明は、「艱難困苦」(かんなんこんく)、つまり困難や苦労の多い状況こそが、自己を磨く最良の機会だと考えました。彼自身、龍場(りゅうじょう)への左遷という逆境の中で「龍場の大悟」に至った経験から、困難な状況が人間を成長させることを身をもって知っていたのです。

私自身、パチンコ店経営での試練や、貿易事業での挫折、そして難病との闘いといった「艱難困苦」を経験してきました。特に70億円もの債務整理を担当したときは、理論だけでは対応できない複雑な状況に直面しましたが、その実践の中で多くを学び、成長することができました。王陽明の言う「事上磨錬」の価値を、身をもって実感したのです。

理論と実践の統合

「事上磨錬」の考え方の背景には、理論と実践を統合的に捉える陽明学の基本姿勢があります。王陽明の「知行合一」の思想からすれば、真の知識(理論)と行動(実践)は不可分であり、両者は相互に補完し合う関係にあります。

理論だけでは空虚になりがちであり、実践だけでは盲目的になりがちです。「事上磨錬」は、この両者を有機的に結びつける方法と言えるでしょう。日常の様々な状況で「致良知」(良知を実現する)を実践しながら、その経験を通じて自らの理解を深め、また深まった理解が次の実践をより良いものにしていくという循環的なプロセスが重視されるのです。

王陽明は弟子たちに、「学ぶなら必ず実践せよ」と諭しました。彼にとって、実践を伴わない学びは真の学びとは言えず、また学びを伴わない実践も盲目的なものに過ぎませんでした。

私が新聞記者から経営者へと転身した際、ジャーナリズムの理論と経営の実践という一見異なる世界を行き来することになりました。しかし振り返ってみれば、取材で培った「本質を見抜く力」や「多角的に物事を考える習慣」が、経営判断の場面でも大いに役立ちました。理論と実践は決して分離したものではなく、相互に影響し合い、高め合う関係にあるのです。

具体的な修養法の紹介

王陽明とその弟子たちは、「事上磨錬」のための具体的な修養法をいくつか示しています。その主なものを紹介しましょう。

  1. 慎独(しんどく):一人でいるときこそ、自分の言動や思考を厳しく律するという実践です。誰も見ていないときの自分の在り方が、本当の自分の姿を表すという考え方に基づいています。
  2. 省察(せいさつ):日々の言動を振り返り、自分の「良知」に従っていたかどうかを内省する実践です。特に夜、就寝前に一日を振り返ることが勧められました。
  3. 随処体認(ずいしょたいにん):日常生活のあらゆる場面で良知の働きを認識し、実践する方法です。食事をするときも、仕事をするときも、人と会話するときも、常に自分の「良知」を意識し、それに従って行動することが求められます。
  4. 立志(りっし):高い志を立て、それに向かって努力することも重要な実践とされました。目標がなければ実践も散漫になりがちだからです。
  5. 集義(しゅうぎ):道徳的・倫理的な価値(義)を日常の中で実践し集積していくことです。小さな善行の積み重ねが、やがて大きな徳性となるという考え方です。

現代のビジネスシーンでの活用例

「事上磨錬」の考え方は、現代のビジネスシーンにおいても大いに活用できます。特に、理論と実践のバランス、失敗からの学び、困難な状況での成長という観点は、ビジネスリーダーにとって重要な視点となるでしょう。

例えば、MBAなどで経営理論を学んだだけでは真の経営者になれないと言われることがありますが、これはまさに「事上磨錬」の視点と一致します。理論的知識と実践的経験の両方が必要であり、特に困難な経営状況での意思決定や問題解決の経験が、経営者としての力量を磨くのです。

また、近年注目されている「リフレクティブ・プラクティス」(内省的実践)や「アクションラーニング」といった手法も、「事上磨錬」の現代版と見ることができます。これらは実践と省察のサイクルを繰り返すことで、専門家としての能力を高めていく方法論です。

さらに、「失敗学」や「レジリエンス(回復力)」の概念も、困難から学び成長するという「事上磨錬」の精神に通じるものがあります。失敗や挫折を単なるネガティブな経験としてではなく、成長のための貴重な機会として捉え直す視点は、ビジネスパーソンの心理的健康と長期的な成功にとって重要です。

私がパチンコ店の年商を30億から200億に伸ばせたのも、日々の経営判断と結果を真摯に振り返り、常に改善を重ねていったからだと思います。特に店長のローテーションを組み、毎週店長会議を行って教育と振り返りを続けたことは、組織全体での「事上磨錬」だったと言えるでしょう。理論だけを教えるのではなく、実践、振り返り、改善のサイクルを組織的に回していくことで、大きな成果につながったのです。

「事上磨錬」という500年前の概念は、現代のビジネスシーンにおいても、個人の成長と組織の発展のための重要な指針となりうるのです。次回は、陽明学のもう一つの重要な概念である「万物一体の仁」について探っていきましょう。

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